市河 米庵 いちかわ べいあん
   

胡風千里驚
漢月五更明
縦有還家夢
猶聞出塞聲
胡風 千里驚く
漢月 五更明るし
縦有り 家に還えるの夢
猶お聞く 出塞の声         (令狐楚 従軍詞五首之四)
122p×45.5p

安永8年9月16日(新暦1779年10月25日)生〜安政5年7月18日(新暦1858年8月26日)歿
 市河寛斎の子。名は三亥、字は孔陽、通称は小左衛門。号は米庵・亦顛・楽斎・百筆斎・金洞山人・小山林堂・金羽山人。
 寛政7年頃、林述斎の門に入り、柴野栗山に学び、寛政11年、書塾小山林堂を開いた。文化8年、富山藩に仕え、後に加賀藩に仕えた。書の門人は5,000人、諸侯の門人も200人を越え、巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。
 彼は若い時から父の薫育をうけ、米芾や顔真卿を根底とし晋唐を慕い、23歳にして『米家書訣』を著わした。享和3年(1803)25歳のとき、長崎へ旅行した折、病にかかり来泊中の胡兆新に治療を受けた。兆新は書を善くしたので書法軌筆のことを聞き、それに深く影響された。そのためか、厳しさといった面が乏しく、また人物が気骨に欠けていたので、明治以来は卑俗の書として嫌う人々が多い。しかし、趣味的なものを排して、格調の正しさを目ざした努力は軽視できない。
 しかし彼は、当時入手しうるあらゆる碑版および明清の集帖を臨摸するとともに、真蹟を重んじて明の神宗の妙沙経や明末烈士の蔡道憲、黄道周などの書を愛し、朝兆新などの新書風に感化されるところが大きかった。
 その学書の方法は書論、書法、書体、書材、文房具とくに筆に、広い資科の蒐集と詳細な基礎的研究を行ったうえ実施したもので、そのために撰んだ著述には今日なお有益なものが多い。
 父寛斉の没した翌文政4年(1821)正月には加州侯本藩に招聘され、5年金沢に出仕し、席書をして光栄をほどこした。そののち大名の教えを請うもの100余人におよび、その書名はますます高くなり、晩年には大名から僧侶、閏秀にいたるまで5000人に達したといわれる。
 また一方で、父の風を受けて詩を好み、揮毫に追われて寸暇もないときにも詩は怠らなかったといわれる。
 嘉永3年(1850)72歳で致仕し、安政2年(1855)みずから寿蔵碑を立て、同5年7月18日80歳で没した。著述には米家書訣、米庵墨談、同続編、三家書論、略可法、米庵蔵筆譜、墨場必携、小山林堂書画文房図説、楷行薈編があり、詩集に米庵百絶、百古、百律がある。そのほか揮毫した法帖の刊本が多数行われている。
 当時は、中年を過ぎても実子がいない場合、養子を取るのが普通だった。米庵も最初、恭斎(名は三千、1796〜1833)を養子にしたが、早死にした。ついで加賀大聖寺藩の藩医横井百翁の次男、遂庵(名は三治、1804〜1884(明治17)10月27日80歳)を迎えた。恭斎同様、遂庵の詳しい事歴は解らないが、出身藩の前田家に仕えたものと思われる。そして米庵が60歳の時、長子万庵が生まれた。
 遂庵の子が得庵(名は三鼎、1834〜1920)で、加賀前田家第13代藩主斉泰に仕えた。
 市河家は、寛斎が富山藩前田家の儒臣を務めたのをはじめ、米庵が加賀前田家から禄400石で召し抱えられ、遂庵・得庵父子は大聖寺藩前田家と加賀藩前田家に仕るなど、前田家と非常に縁が深い。
 引首印は朱文の「米庵」、「米庵亥」の下に、白文の「河三亥」、朱文の「孔易」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%B2%B3%E7%B1%B3%E5%BA%B5
http://fine-vn.com/cat_5/ent_70.html
http://reo.lib.kagoshima-u.ac.jp/~kicho/meisai.php?id=214
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